2023
Sep
28
二度と会うことがないような相手に親切にする意味
観光地でカメラのシャッターを押して欲しいと頼んでくるカップル、急いでいるときに道を尋ねてくる高齢者、一人でゆっくりしたい温泉入浴中にやたらと話しかけてくるおっさん……他にもいくらでもありますが、その後、二度と会うことがないような他人に親切に感じよくする意味は一体何なんだろう?と考えたことがあります。
一緒にいる知人に「親切な自分」を見せつける必要もなく、おそらくすぐに相手の記憶からも消えるであろう状況、つまり、その人に親切にしても実益がない場面での話です。
相手や自分の状況、その親切に要する時間や負担にもよりますが、私はなるべく感じ良く親切にすることのほうが多い(と自分では思っています)。
はて、なぜ、そうするのか。
一緒にいる知人に「親切な自分」を見せつける必要もなく、おそらくすぐに相手の記憶からも消えるであろう状況、つまり、その人に親切にしても実益がない場面での話です。
相手や自分の状況、その親切に要する時間や負担にもよりますが、私はなるべく感じ良く親切にすることのほうが多い(と自分では思っています)。
はて、なぜ、そうするのか。
結局は、自分がそのとき、どうすると気持ちいいのか、どうしたいのか、ということだと思います。
たとえ刹那だろうと、目の前の相手が気持ちよくなれば、自分も気持ちよくなることが多いですから(少なくとも私は)。
・・いや、待てよ。
これって、二度と会うことがない相手とか実益とかって話ではなく、人生そのものというか、生き方そのもののような気もしてきました。
究極のところ、身近な他人であっても、自分も相手もいつかは死にます。多くの場合、100年くらい経てば自分のことを知る人なんて誰一人いなくなるわけです。
そして、どのような行動を取ろうとも、法に触れない範囲であれば自由です。
やはり、結局は自己満足。そのとき、どうしたいのか、相手の立場に立ってモノを考えたいのか、そんなことはしたくないのかを自分で選択しているのでしょう。
竹原ピストルの『きーぷ、うぉーきんぐ!!』という歌の中に、「もはや足跡を残したいわけじゃない、でも足音を鳴らしていたいんだ」という歌詞があるのですが、自分にとって気持ちいい身のこなしを続けていきたいということなんだろうな、と思いました。
おっさんになると、悲しいことにそういう心境が非常によく分かってしまいます。
人生なんて死ぬまでの暇つぶし。その場で踊って、それを楽しんだり、味わいながら噛み締めるのも自由です。
だからといって、好きなことだけをしようにも、ずっとやり続けていても飽きないことなんて未だに自分でも分からない。仮に分かっていたとしても、それにはお金がかかるかもしれない。もちろん、家族を食べさせる必要はあるし、自分はその責任を果たす男でありたいとは思う。
でもでも、現実的な範囲で自分にとって気持ちいい足音くらいは鳴らしたい。
なるべく他人には親切にしよう。家族や周りの人を大切にしよう。なるべく旨いものを食べよう。たまには高い酒だって飲んじゃおう。
・・と、もはや、冒頭に書いていたテーマというか考察事項からは随分とズレてしまった気もしますが、ここは気楽な個人ブログです。好きなように踊らせていただきやす。
押忍!
※前述しましたが、相手や自分の状況、その親切に要する時間や負担によっては、そっけない塩対応をしたほうが、お互いにとってベターな場合もあるでしょう。
また、「いい人」「断れない人」に付け込んで寄生するような輩はよくいますし、稀にそういう人を脅してマインドコントロールするようなヤバい奴がいることも事実です。何事もバランスを見ながら、ほどほどに、そしてイザというときは毅然とした対処が必要なことは言うまでもありません。
【関連記事:時間やお金をどう使うのか≒どう生きるのか】

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